2004年10月07日(木) [長年日記]
■ キャッチボール ICHIRO meets you
この時だからこその再読。
何が一番凄いかというと、
自分のやっていることは、理由があることでなくてはいけないと思っているし、自分の行動の意味を、必ず説明できる自信もあります。
という発現。
言語か能力なんだけど、それが野球のことに留まっていない。
もう自分の生きる全てを理解しようと言う姿勢に打たれる。
なんだろう、自分に起こる全ての出来事に対抗しようという意志とでもいう考えなのだろうか。
ココに面白いことが書いてある。
感動した本よりたいしたことなかった本の方が言及量が多くなってしまう。このジレンマなんとかせんといかん。要するに感動を的確に言語化すればいいわけですが。
[ogijunの日記(2004/10/01) より引用]
そうそう、全くその通り。
ツッコミだったら苦もなく入れられるのにー、って感じることが多い。
要するに、感動という感覚を言語化するなんて(そんな教育も受けていないし)非常に苦手であるのに対して、ツッコミはそれ自体が論理的構造を成しているので、言語化が楽なのね。
僕なんかたまに絶望するぐらい言葉に出来なくて、駄文でも書き続ければちょっとはマシになるかと思って日記なんぞをつけているのだが、駄文な上に量も書いていないので全く役にはたたず日々流されるままに生きているのだが。
その昔、友達に「論理的に感動したい」と言ったら、「はぁ?そんなので感動できるの?」と反論されたきり何も言えなくなってしまったのだけど、最近ようやく分かってきた。
感動したことを言語化する(つまり論理的に説明できるようにする)と、感動のフィードバックを受け取れるのだ。
『感動した』という体験ではなく、『感動したことについて』を体験できるのだ。
それは自分で到達した地平だから、与えられた感動よりもずっと深く体に刻みつけられる。
そして、感動を言語化する処理は感動することと別プロセスなので、こんな考えが感動を軽減することなど決してない。
感動の言語か処理は、まず感動してそれを後追いで理由付けしていく処理で、やっぱりどうあっても感動そのものには届くことは出来ないし。
だいたい、入力と同時に理解できるモノになんて感動しない。
で、イチローに話を戻すと、『自分の行動の意味を、必ず説明できる自信もあります。』という極端なまでの発言は、きっと、ずっと小さいときから自分の感覚を理解しようと考え続けてきた結果かなぁ、と思ったりしました。
それにしても、あの黒いのは"帯"だったのね。
Amazonの書影見て書店に行っても、この本見つけられないよ。
■ ジョアン・ジルベルト Japan Tour 2004 −THE BOSSA NOVA−@東京国際フォーラム ホールA
ほぼ日経由⇒
何だかもうその人しか見てられない。
ギターを手によろよろと出てきて、ささやくように歌うその人をまっすぐ見据えることしかできない。
歌のメロディーと、それと全く違うところを流れるギターの音とのうねりがたまらなく心地よい。
ふと自分が寝ていたことに気付きます。
でも、起きているときも寝ているときも同じようにその音楽は流れていました。
■ 謝謝

記憶を頼りに謝謝へ。
着いたときは21時55分、中に入るとラストオーダーは22時だと言われる。
が、ご飯を食べたいと言ったら、丼モノならすぐできるからと言われて、おすすめの麻婆豆腐丼を。
うん、美味くてボリュームたっぷり!
写真に写ってないけど、付け合わせの小皿も美味くて幸せ。
